「社会叡智を結集し、医療における回避可能な危害を無くす」を掲げるゼロハーム株式会社。2024年10月に設立された名古屋大学発ベンチャーの同社は、名古屋大学医学部附属病院が独自に開発したレポートシステムに、AIとクラウドの技術を掛け合わせた次世代型インシデントレポートシステム「Zeroharm」を2026年8月にリリースしました。
全国の医療機関に届けるにあたり、求められたのは医療情報を扱うサービスならではの要件と、複数の医療機関が使う基盤としての設計。クラスメソッドはAWS基盤の構築を、コンサルティングで支援しました。
病院ごとに閉じた情報を“医療界の知”へ
医療現場では、事故やヒヤリハットをインシデントレポートとして記録し、分析し、再発防止につなげる活動が続けられています。この領域を長年研究してきたのが、名古屋大学医学部附属病院の患者安全推進部。同院は国立大学病院で唯一、国際的な医療施設評価認証機関であるJCI(Joint Commission International)の認証を取得しています。
研究の中心にいる長尾能雅教授は、ゼロハームの取締役も務めています。長尾教授が掲げる医療安全の考え方を、取締役の長田さんはこう説明します。
「事故を起こした医療従事者を責めるためのものではありません。同じ被害を二度と繰り返さないために、組織として学び続ける。それが医療安全の根幹にある考え方です」(長田さん)ただし、既存のインシデントレポートシステムには構造的な制約がありました。多くがオンプレミスで構築され、情報は院内に閉じたまま。センシティブな情報として慎重に扱われてきた経緯もあり、病院を越えて共有される機会はほとんどありません。しかしインシデントはどの機関でも起こりうるものです。
「同じ事故が、全国の医療機関でそれぞれに繰り返されている。それなら、業界全体で知識と経験を集約したほうがいい。閉じた世界ではなく、開かれた医療安全へ。そうすれば、より強力に医療安全を推進できます」(長田さん)
この思想を形にしたのがZeroharmです。名古屋大学医学部附属病院に蓄積された12万件のインシデントレポートを教師データとしてAIが学習。報告されたインシデントのリスクを定量化し、医療安全管理者がどの事案から対応すべきかを判断する客観的な指標を示します。この技術は特許も取得しました。
レポート作成にかかる時間は平均6分。匿名での報告にも対応します。既存システムとの違いは、機能の多寡ではありません。医療安全をどう捉えるかという考え方と、それを支えるインフラの構成にあります。
β版は自力で構築。本番環境で下した判断
Zeroharmのインフラを担当するのは赤座さんです。業務システム開発を長く手がけ、インフラの知見も独自に積み重ねてきました。β版のAWS環境は赤座さんが構築しています。
クラスメソッドとの縁が生まれたのは、2025年9月。AWSの請求代行についての相談でした。翌10月にはクラスメソッドメンバーズへ加入し、本番環境に向けたコンサルティングの提案を受けます。
自分たちで作れないわけではありません。それでもゼロハームは、本番環境の設計に外部の知見を求めます。10月、コンサルティングの依頼を決めました。
β版と本番環境とでは、背負うものが違います。β版はUIや機能を確かめてもらうためのもの。実際の患者情報を預かることはありません。しかし本番環境は違います。全国の医療機関から、現実に発生したインシデントの記録を預かることになります。
「β版の段階を越えて、サービスとして提供するインフラを作り込んでいく。そういう段階に入りました。しかも医療に関わるシステムです。セキュリティやガイドラインへの準拠が、当時いちばん大きなテーマでした。ここは専門家のアドバイスを受けながら進めたい。そう考えたんです」(赤座さん)医療情報を扱うシステムには、3省2ガイドラインと呼ばれる基準があります(※)。医療機関側と事業者側の双方に、医療情報を安全に扱うための要件を課すもの。全国の医療機関にSaaSとして届ける以上、避けては通れません。
(※)3省2ガイドライン:厚生労働省「医療情報システムの安全管理に関するガイドライン」と、経済産業省・総務省「医療情報を取り扱う情報システム・サービスの提供事業者における安全管理ガイドライン」の総称。3つの省が示す2つのガイドラインであることから、こう呼ばれる。
しかも、対応すれば済む話ではありません。医療機関はシステムを導入する際、事業者からセキュリティ対応状況の開示を受けることが求められます。その標準書式が、JAHIS(保健医療福祉情報システム工業会)の定める医療情報セキュリティ開示書。3省2ガイドラインの要求から、開示すべき項目を抜き出したものです。ゼロハームでも、β版の利用を検討する医療機関から提出を求められました。
自分たちが何にどう対応しているのか。それを、医療機関に示せる状態にしておく。本番環境の設計は、その責任を引き受けることでもありました。
2025年12月、β版が完成します。無償の先行利用プランには、20施設の枠を設けました。実地の運用と並行して、本番環境の設計が動き出します。2026年1月、クラスメソッドの支援が本格化しました。
約200項目のガイドライン確認にすべて回答
支援の中心となったのが、3省2ガイドラインへの対応です。担当したのは、アプリケーションを手がける成松さんでした。
ガイドラインを読み進めるほどに、成松さんはある壁に突き当たります。
「とにかく数が膨大でした。しかもインフラで対応すべきものなのか、私たちのアプリケーション側で作るべきものなのか、切り分けの判断がつかない項目がたくさんあったんです」(成松さん)判断のつかない項目を、成松さんは1つずつ抜き出していきます。その数、約200項目。クラスメソッドのエンジニアは、この200項目すべてにレビューコメントを返しました。
対応が必要な項目だけではありません。問題のない項目についても、なぜ問題ないのかを記しています。医療機関から開示を求められた時に、根拠を示せる状態にしておくためです。
「抜き出した量も相当なものでしたが、その1つひとつをしっかり見ていただきました。この項目はAWSの環境でこう設定すれば良い、と具体的なアドバイスまでいただけて。本当に助かりました」(成松さん)
インフラを担当する赤座さんが手こずったのは、条文の解釈でした。このガイドラインは、クラウドを前提として書かれていません。例えば、サーバ室の入退室管理や施錠を問う項目。AWSを使う以上、ゼロハームの誰かがサーバ室に立ち入ることはありません。
ではAWSの側では、どうなのか。
「AWS側で適切に管理されているはずですが、では、その根拠はどこにあるのか。調べ始めると、何をどこまで確認すれば良いのか、わからなくなります」(赤座さん)
答えはAWSが公開する公式ドキュメントにあります。ただし、その資料は膨大です。どこに何が書かれているのかを探すだけで、時間が過ぎていく。クラスメソッドのエンジニアは、参照すべき資料をピンポイントで示しました。
「『この資料を確認してください』というところまで示していただければ、あとは自分で調べられます。取っ掛かりをいくつも示していただいたことで、最初の手探りが大幅に短縮できました」(赤座さん)
この支援を担当したクラスメソッドのエンジニアは、医療系システムの開発に長く携わってきた経歴を持ちます。医療機関が情報をどう扱い、何を求めるのか。その現場感覚が、アドバイスの精度を支えました。
「クラウドインフラの一般論にとどまらず、医療システムならではの領域まで踏み込んだアドバイスをいただけました。これは本当にありがたかったですね」(赤座さん)
マルチテナント設計で費用と安全性を両立
支援が及んだのは、ガイドライン対応だけではありませんでした。
Zeroharmは、医療機関ごとにテナントを分けて環境を提供します。複数の顧客が1つのシステムを共有する、マルチテナントと呼ばれる構成です。赤座さんが当初設計したのは、そのなかでもサイロ型と呼ばれる方式。テナントが増えるたびに、データベースもWebサーバも1つずつ増やしていきます。環境が完全に独立するため、データが混ざる余地がありません。セキュリティを確実に担保できる方式です。
一方で、この方式は施設が増えるほど費用が積み上がります。1つのリソースを複数のテナントで共有するプール型なら、費用は抑えられる。
「1つの環境に複数の医療機関のデータが同居する。それが本当に安全だと言い切れるのか。医療情報を預かる以上、確信のないまま進むわけにはいきませんでした」(赤座さん)
クラスメソッドのエンジニアは、プール型への転換を提案します。テナント間でデータを分離する手段は複数あり、組み合わせれば医療情報を扱う水準のセキュリティを確保できる。その根拠を示したうえでの提案でした。あわせて、3年で200施設という事業計画から総ユーザー数と同時接続数を割り出し、設計の前提をドキュメントに落とし込んでいます。感覚ではなく、根拠を持って設計するためです。
「『データを分離する手段は複数あり、それらを組み合わせればプール型でも十分に対応できる』。そう示していただきました。ここが大きな意思決定でした。方式を切り替えよう、と」(赤座さん)
支援は、ほかの領域にも及びました。インフラの構成をコードとして記述するCDK。赤座さんはβ版の段階から採用し、生成AIにコードを書かせることも増えていました。ただ、AIが常に正しいとは限りません。詳しくない領域を任せた結果、意図とずれた設計が返ってくることもある。そうしたコードに、クラスメソッドのエンジニアが指摘を入れています。
アプリケーション側でも、認証基盤に採用したAmazon Cognitoについて、ユーザー情報を医療機関ごとに閉じるのか、Zeroharmとして一元化するのか、選択肢の整理から議論を重ねました。設計と実装はゼロハームが担い、クラスメソッドはレビューとアドバイスで伴走する。この体制で、本番環境の骨格が固まっていきます。
「専門的な質問にも、必ず答えが返ってきます。自分が悩んだことをぶつけてみて、わからないと言われたことは一度もありませんでした」(赤座さん)
長田さんは、その成果を数字で表現します。
「インフラの設計開発から仕様の検討まで、全体の品質を1.8倍、2倍にまで引き上げていただきました。それも非常に少ない工数で。素晴らしい価値を出していただいたと、大変満足しています」(長田さん)
クラスメソッドのワークショップを通じてAI入力機能を実現
Zeroharmはクラウドと併せてAIをサービスの柱として掲げています。名古屋大学に蓄積された約12万件のレポートや医療従事者や法律専門家による評価をもとに、レポートに対してAIが情報の平準化や組織内のスピーディな対策を後押しするなど、サービスの利便性を支えます。Amazon Bedrockにて採用しているモデルはClaudeのSonnet 4.6で「医療や個人に関する重大な情報が国外に出ず国内だけで利用できる点や、その文章生成力、コスト面などから複合的に判断しました」と開発者の小林さんは語ります。
ほかにも、ZeroharmにはAIによってレポート作成を促すための機能も実装されています。その背景には情報を収集・分析して再発防止策を講じて実行する流れの初動であるレポーティングこそが従来のボトルネックになっていたことを長田さんは指摘します。
「ヒヤリハットのケースも含め、従来のシステムですと大量の入力項目が求められ、1件のレポートを書くのに平均で15分から20分、多い人では30分もかかるといいます。記入者の心理的負担や多忙な現場ではなかなか報告が上がらないという実態がありました」
この一助としてZeroharmではAIによる入力内容の要約と体系化、音声入力、添削などの補助機能を搭載しました。これはクラスメソッド主催のワークショップ「Classmethod Craft Lab」への参加と、そこでのエンジニアとのディスカッションを通じ、当初アイデア止まりだったものを内製による機能実装という形に結びつきました。
知見が循環する基盤へ
2026年8月、Zeroharmが正式リリースを迎えた今、同社が描くのは全国への展開です。
長田さんが見据えるのは、大規模な病院だけではありません。クリニック、老人介護施設、そして在宅医療。医療安全管理者を専任で置ける施設ばかりではなく、報告や分析にかけられる時間も限られます。とりわけ在宅医療の現場では、インシデントへの対応が個人の判断に委ねられがちです。
「小さな現場で起きたインシデントに、どう対応すれば良いのか。1つの施設だけでは、判断の材料が足りません。全国の知見が集まれば、その現場に正しい対応を届けられます」(長田さん)
さらにその先には、報告する人を広げる構想もあります。看護師や医師だけでなく、患者や家族からも報告を受け取る。院内に閉じたシステムでは描けなかった未来です。
次のフェーズでも、ゼロハームはクラスメソッドとの協業を見据えています。導入施設が増えていく局面での基盤の見直し、AIをサービスに組み込む領域での知見。そしてAI駆動開発の標準化にも取り組む予定で、その領域でのレビューや研修も視野に入れています。
「作るのは自分たちです。そのうえで、判断に迷った時に確かな答えが返ってくる。だから前に進むのが速い。自社で開発を進めたり、AIに聞いたりするなかで『本当にそれでいいのか』という疑問が生まれ、専門的なアドバイスを求めている。そんな現場にこそ、クラスメソッドをお薦めしたいですね」(赤座さん)
全国の医療現場に蓄積された知見が、病院の壁を越えて循環する。回避可能な医療事故を、ゼロにする。ゼロハームが目指す未来へ、歩みは続きます。クラスメソッドはこれからも、ゼロハームの医療安全プラットフォームづくりを引き続き支援してまいります。


